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インダス文明は四大文明の一つだ。人類は中緯度帯に集まった。そこには川があり、農耕を始めた。文字も生まれた。インダス文明で生まれたインダス文字はまだ解読されていない。文章が少ない為、解明が難しいと言われている。
まずインダス川流域にアーリア人が流入してきた。この時持ち込んだのが、鉄だ。これにより農業革命がおきた。農具が鉄になり、農業の生産性が向上した。経済は発達したが、代わりに貧富の差が生まれた。これは今でも起きている現象だ。この意味において歴史を学ぶ事は現状や未来を想像するのに格好の鏡だ。
ここかr学べる事は、イノベーションは飛躍的な生産性を向上させるが、貧富の差を広げる。これにより、身分の差が生まれる。イノベーションがおきると必ず光と影が生まれる。
アーリア人はバラモン教も持ち込んだ。これはヒンドゥー教の元になった。バラモン教では階層がある。一番上がバラモンで司祭・僧侶だ。次はクシャトリアで王族や士族だ。次がヴァイシャは一般市民。最後がシュードラと呼ばれる奴隷だ。この階層は後のヒンドゥー教のカースト制度に引き継がれる。ちなみにカースト制度は基本的に階層は変えられないが、IT技術者はそれを乗り越えられる。カーストの職業に載っていないからだ。サティア・ナデラやスンダ―・ピチャイが好例だ。
バラモン教ではヴェーダと呼ばれる歌を詠みあげる。経典のようなものはない。身分制度を肯定する為の歌だ。しかし徐々に階層間の争いがおきる。
そこで登場したのが、ゴーダマ・シッダールダ、ブッダである。ブッダは王族の出だが、貧民を助ける為に王族を辞めた。ブッダはなぜ人はこんなに苦しむのだろうと考えた。この苦しみである煩悩から抜け出れば人間は楽になると考えた。これを解脱と呼ぶ。
ジャイナ教という宗教もあった。ブッダは欲望をなくす事は出来ないと考え、適切に管理しようと考えた。しかしジャイナ教は煩悩を一切捨てろという考え方だ。その結果、ジャイナ教を進行する人はものを買わないので、お金持ちになった。
そんな中、マウリア朝という最初の国が出来た。きっかけはあのマケドニアのアレクサンドロス大王だ。アレクサンドロス大王の遠征に備え、インド国内は一致団結した。それがマウリア朝の興りだ。
マウリア朝の名君がアショーカ王だ。その時、注目されたのが仏教だ。アショーカ王は仏教が国を治めるのに使えると考え、仏教を国教にした。
マウリア朝の後にクシャーナ朝がおきた。この時、東から西へのシルクロードが出来た。西から共和政ローマ帝国、パルティア、クシャーナ朝、そして、後漢へとの交易の道が出来た。この頃、人は宗教というストーリーを信じて、国の単位(宗教の単位)では人々は協力・協調できるようになった。
ガンダーラ美術もこの頃出てきた。仏像だが、顔立ちが西洋風というものができた。西洋と東洋の交流を象徴している。
その後、グプタ朝がでてきた。チャンドラグプタ2世の時に仏教に変わり、ヒンドゥー教が再興してきた。バラモン教は多神教なので、土着のストーリーを沢山取り込んだ。その時、ブッダが実はバラモン教の神の一人、ヴィシュヌであったというストーリーを作った。ヴィシュヌは何にでも変身できるという特徴を使って、なんと仏教まで取り込んだ。その結果、仏教徒も取り込む事に成功した。こうして出来たのが、ヒンドゥー教である。
その後、ヴァルダナ朝がおきた。ハルシャ・ヴァルダナ王が仏教に傾倒し始める。そんな時、中国から玄奘(げんじょう)とう僧がやってきた。本場インドまで仏教を学びにきたのだ。西遊記の三蔵法師のモデルだ。ハルシャ・ヴァルダナ王は玄奘をいたく気に入り、玄奘をもてなした。
ハルシャ・ヴァルダナは後継者を決められなかった。この後、分裂が300年続く。人類が繰り返す後継者問題のよい事例だ。
その時、中東ではイスラム教を中心した国が沢山おきてきた。一神教のイスラム教は国内を纏めるにはとても強力だ。その中でトルコ人の奴隷アイバクがインドで国を作った。その名も奴隷王朝だ。いずれにしろ、イスラム教の国だ。しかしインド国内はヒンドゥー教の文化が残っている。従って、支配階級はイスラム教徒、被支配階級はヒンドゥー教徒という状態で国を治めた。
その後、イスラム教最強王国、ムガル帝国が出来る。イスラム教とモンゴルの組み合わせの国である。ムガル帝国の初代皇帝がバーブルだ。イスラム教の思想とモンゴル人の強さを持った皇帝だ。
ムガル帝国の3台皇帝のアクバルはイスラム教とヒンドゥー教の融合を図った。ムハンマドは最後、直接勝利にて人気を得た宗教だ。いわば武闘派一神教だ。対してヒンドゥー教は多神教で偶像崇拝も認めている。
イスラム教は他宗教に厳しい。イスラム教は他宗教徒には重税を課し、イスラム教徒には減税した。これによりイスラム教への改修を促す。アクバルはこの仕組みをやめた。そしてヒンドゥー教の奥さんをとった。これにより、ヒンドゥー教徒の支持を得た。その奥さんの数がなんと300人だ。国政もうまかった。役人の異動を行ったり、宗教比較も容認した。
第5代皇帝はシャー・ジャハーンだ。妻が出産の時に命を落とした。悲しみのあまり、タージマハールは髪が真っ白になった。そして、妻の墓として作ったのが、今に残るタージマハールだ。22年間、2万人で作ったと言われている。その結果、財政は悪化した。
その息子6代皇帝のアウラングゼーブはこれを許さなかった。父親が真っ白なタージマハールを作った後、次に黒色で同じタージマハールを作ろうとした。アウラングゼーブは父親を幽閉して、これを止めた。
このアウラングゼーブは、イスラム教を強く信仰していたので、ヒンドゥー教との融和政策をやめた。これにより国内の9割のヒンドゥー教徒が反乱を起こした。これによりムガル帝国は大混乱し弱体化した。このインドにおけるイスラム教とヒンドゥー教の対立は今もなお続いている。イギリスはこの対立を後に利用する事になる。
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