【世界史⑤/8】大航海時代 総集編【2023年最新版】

地政学

以下の動画の復習です。

中東はオスマン帝国が支配していた。インドはムガル帝国が支配する。中国は清だ。神聖ローマ帝国はヨーロッパを支配する。

神聖ローマ帝国は、インドと交易が出来なくなった。インドに行く為にはオスマン帝国が立ちはだかる。神聖ローマ帝国はインドの香辛料を狙っていた。

ここでポルトガルとスペインが台頭する。それまでは地中海に近い国がヨーロッパで力を持っていた。そこに羅針盤がヨーロッパに入ってきた。ポルトガルはアフリカの南端経由でインドを目指す事になった。バルメトロ・ディアスが南アフリカの南端にたどり着いた。ここはThe Capeと呼ばれ、日本語では喜望峰と訳されている。それ位、インドの南端にたどり着く事は大きなマイルストーンだった。その後、ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達し、香辛料を持ち帰った。胡椒は黒ダイヤと呼ばれるほど高級品だった。

スペインは別のアプローチを取った。ここで登場するのがコロンブスである。この時代、地球球体説が既に広まっていた。しかしキリスト教の教えでは地球は丸くないので、これと地球球体説が矛盾する。しかし、地球球体説を信じてコロンブスは西回りルートでインドを目指した。

コロンブスも最初から受け入れられたわけではない。コロンブス自身はイタリア人だ。ポルトガルに西回りを提案したが、拒否された。スペインは女王には指示されたが、結局議会に反対された。しかし、ここでイベリア半島からイスラム勢力を追い出すレコンギスタが完成した。これによりスペインから支持を得て、コロンブスは西回りに出発する。

コロンブスはカリブ海にたどり着いた。そこは西インド諸島と名付けられた。そして、その現地人をインド人だと思い、インディアンと呼んだ。コロンブスはこの時「インディアンはとてもいい奴隷になりそうだ」と記している。コロンブスはここで一回、ヨーロッパに戻る。実施にコロンブスがインドを信じた地は今のアメリカであるし、香辛料も持ち帰っていない。コロンブスは信用を失い、自分がたどり着いた地が最後までインドだと信じて死んだ。

その後ポルトガルは偶然、ブラジルにたどり着く。ポルトガルは南回りでインドを目指していたが、船が流され、今のブラジルにたどり着いた。そこをインドだと思い、占領した。しかし、インドはそんな南に位置していないし、おかしいという疑念が持たれる。

そこで登場したのが、アメリゴ・ヴェスプッチだ。アメリゴ・ヴェスプッチは南アメリカ大陸を調べるにつれ、それが明らかにインドより南に位置している事を理解して、それは新大陸とスペイン国王に報告した。そして大陸名は彼の名を取って、アメリカ大陸と名付けられた。

その後スペインはマゼランに地球球体説を証明する為、西回り航路を命じる。5隻で出向したが、南アメリカを回る前に二隻が反乱した。一隻は帰り、もう一隻は難破した。南米を回り3か月が経過しても大陸は現れない。食料も尽きる。

そんな中何とかインドネシアにたどり着いた。船にアジア出身の奴隷がいて、現地人と会話が出来た。そしてそこが東南アジアだと分かる。そして、スペインのフェリペ二世の名前を取って、その地域はフィリピンと名付けられた。これでスペインはアメリカ大陸とフィリピンを手に入れた。

マゼランはキリスト教から資金を得ているので、フィリピンにキリスト教を布教しようとする。しかし、現地王からの反対にあい、現地で殺された。そこから部下はフィリピンから西回りでスペインに帰った。これにより、マゼランの部下が世界一周を達成した。

スペインは最盛期を迎える。スペイン国王のカルロス一世であり、彼は神聖ローマ帝国の皇帝も兼任していた。カルロス一世は神聖ローマ帝国では、カール五世という皇帝でもあった。カルロス一世はハプスブルク家出身であり、当時、ハプスブルク家は婚姻政策により、多くの国王を輩出していた。

カルロス一世の息子フェリペ二世は最強の兼任王となる。この頃、スペインはアメリカを占領し、ポルトガルはアジアを占領するという両国の条約が結ばれていた。フェリペ二世はポルトガルの王女と結婚して、なんとポルトガルの王も兼任した。この時、スペインは太陽の沈まぬ帝国とよばれていた。アメリカ大陸のアステカ帝国やインカ帝国はスペインの最新の武器の前にあっという間に滅ぼされてしまう。結果として、スペインはアメリカ大陸からは銀を手に入れ、アジアからは黒コショウを手に入れていた。スペインの何処かの植民地は必ず昼であるという事からスペインは太陽の沈まぬ帝国と呼ばれた。

しかし諸行無常、スペインも没落する。キリスト教の変化が影響している。カトリックに対して文化的離脱も始まった。絵画は宗教画中心だったが、人の為のアートが復興した。いわゆるルネサンスである。ルネサンスの天才レオナルドダヴィンチは遠近法や写実的な描写で、それまでの宗教画とは全く違う絵を描いた。ダビデ像も非常に写実的な彫刻だ。ダンテの新曲も、ラテン語ではなくトスカーナ語という方言で書かれたという点でそれまでの宗教的なものではなく、人によりそった作品となった。

キリスト教は、復権する為にサン・ピエトロ大聖堂を建設しはじめた。ただ、予算が膨大にかかった。また免罪符の販売も始めた。これに反対したのが、ドイツ人のルターである。95条の論題を発表してカトリックの問題を提起した。ただ、これはラテン語で書かれているので、多くの人には読まれなかった。そこでルターの友人たちがドイツ語に翻訳した。そしてそれ印刷した広く頒布した。

ローマ教皇の力は弱まっていた。破門にも屈しないルターをなんと皇帝のカール五世が国外追放して追手を差し向けた。そこで神聖ローマ帝国のザクセン選帝侯フリードリヒがルターを匿った。そしてルターは聖書をラテン語からドイツ語に翻訳した。そこには免罪符の存在はない事を翻訳して印刷して広めた。スイスのカルヴァンも免罪符そのものの考え方を否定している。カルヴァンは、そもそも神は救うものと救わないものを決めていると主張した。それまで金儲けは卑しいものとみられていたが、金儲けをしても、救われるか救われないかとは関係ないとして、免罪符の購入は必要ないとして商人達を勇気づけた。

イギリスでも宗教において動きがあった。イングランド王のヘンリー8世は有能だったが、男子の子供がいなかった。しかしカトリックでは離婚が禁止されている。そこで、イギリス国教会を作り、それでは離婚を許可した。

このカトリックとカトリックに反対するプロテスタントがヨーロッパを変えていった。オランダにはプロテスタントが広まった。スペインはオランダに対してカトリックを禁止した。それに対してオランダは独立戦争を起こした。20年かけてついにオランダは独立した。スペインはこの長期戦争で財政が悪化した。

その頃、神聖ローマ帝国でもプロテスタントが勢力を拡大していた。神聖ローマ帝国皇帝のカール五世はついにカトリックとプロテスタントの選択制を許可した。しかし、その頃、カトリックとプロテスタントで勢力は半々位になっていた。選択制を許可した事で、むしろ混乱と争いがおきた。このカトリックとプロテスタントの争いが30年戦争だ。

この間、台頭してきたのがプロイセンだ。プロイセンは軍事国家だ。プロイセンはハプスブルグ家のオーストリアと戦争して、勝利する。オーストリアの敗北により、ハプスブルク家の弱体化して、カトリックも弱体化した。

フランスでも宗教戦争がおきた。それを収めたのがアンリ四世だ。プロテスタントのアンリ四世はカトリックに改宗し、一方で、プロテスタントも認める事にした。これで一旦、宗教の融和を図った。インドのムガル帝国のアクバルもヒンドゥーとイスラムの争いを止めた名君だ。宗教の対立をうまく纏めるのが名君の条件だ。

フランスのアンリ四世の融和政策はナントの王令だ。これをひっくり返したのが、太陽王ルイ14世だ。ルイ14世は5才で即位した。中国で行われていたように、幼帝を立てて、側近が権力を握ろうとするやり方だ。しかし、議会が混乱、宰相も死亡して、ルイ14世だけが残った。結果としてルイ14世は「朕は国家なり」と言って、好き放題出来るようになった。

ルイ14世は浪費した。ヴェルサイユ宮殿を作り、戦争を行った。またプロテスタントを禁止した。それよりプロテスタントを支持する商人がフランスから出ていき、フランスは財政難に陥る。

この宗教戦争で疲弊しなかったのが、イギリスとロシアだ。イギリスはイギリス国教会を作り、宗教対立とは別のアプローチをとっていた。ヘンリー8世の後、エリザベス1世が重商主義で国力を高めた。そして、フェリペ二世とアルマダ戦争を行う。そしてイギリスは勝利する。

エリザベス1世の後、権力の源を王にするのか議会にするかという内輪もめがおきる。この争いは議会側のトップのクロムウェルが勝利する。しかしクロムウェルもカエサルや司馬炎と同じ事をする。トップにあった後、自分を終身護国卿にしようとした。これによりクロムウェルの評価は下がった。トップになるまでは支持されるが、その後、評価が下がるパターンだ。

イギリスは王がトップになりながら、王が暴走しない仕組みを考えた。王に予め議会を優先させるという契約書にサインさせ、それから王になってもらう。これは権利の宣言と呼ばれる。最終的にはイギリスはドイツから英語の話せない王を呼ぶくらいの事もやった。これは「君臨すれども統治せず」と言われた。イギリスは議会優勢の国家となった。ルイ14世を産み出したフランスとは対照的だ。

最後にロシアに触れる。ロシア皇帝のピョートル1世は、他国に学ぼうとして、なんと自らオランダに行って、偽名を使って働いた。他国のやり方を学んだピョードル1世は自国の近代化を図り、スウェーデンを戦争で奪った。次のエカテリーナ2世の時代にはウクライナ・クリミア半島も奪う。今のプーチン大統領はピョートル1世から始まったロシア時代を崇拝している。

なぜロシアは力をつけられたのか。ロシア正教があったので、そもそも宗教戦争が起きなかった。イギリスもイギリス国教会を作って、宗教戦争を回避した。

イギリスはこの後、産業革命を起こし、中東・インド・そして中国を支配しようとする。帝国主義の始まりだ。イノベーションが起きると、必ず格差が生まれる。イギリスは他国に対して、圧倒的に優位な立場を得ていく。




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