以下の動画を見ました。最近の経済や戦争について学んでいるうち中東の歴史をもう一度学びたかったと思っていたので、本当にありがたい。
人類は猿人から始まった。猿人であるアウストラロピテクスがアフリカで生まれた。猿人は打製石器を使っていた。原人は洞穴に住んでいた。旧人は埋葬を行っていた。新人は洞穴に住み、人の死を悼み、洞穴で絵を書いていた。つまりコミュニケーションを取っていた。この新人がホモ・サピエンスとなった。
ホモ・サピエンスが同時に文明を起こした。中緯度帯の温度が上がり、いわゆる四代文明がおきた。この4大文明がおきた地は乾燥しがちで必ずしも農耕に向いていなかった。それを克服する為に人は川の近くに集団で住んだ。
まずはヨーロッパのエーゲ文明を見ていく。この頃の古代ギリシアの都市アテネでは、既に直接民主制が行われていた。その後、潜性政治でワントップ体制も試された。しかし悪いワントップが出来る場合があるので、それを追放出来るように、陶片追放も行われられた。この頃から、さまざまな政治システムがアテネでは試されていたのである。
アテネのライバル都市は、スパルタは、軍事力強化を進めた。他の都市を侵攻して、大量の奴隷を確保し、自分達の軍事力にしていた。
ギリシアは外にも目を向けなければならなかった。中東からアケメネス朝ペルシアがギリシアに攻めてきた。この時は、遠征でペルシア軍が疲弊しており、ギリシアは自分達の国を守り抜く事が出来た。
その後、アテネとスパルタがギリシア内で覇権争いを行い、両都市とも疲弊していった。
そこに目を付けたのが、ギリシアの北に移置するマケドニアだ。マケドニアが当時ギリシアから移民の集まりとして侮られていた。フィリッポス二世が軍事革命を起こした。重層歩兵という屈強な鎧をして、二メートルの長い槍をもった部隊で相手を足止めさせて、その間に騎馬隊が遠巻きからやってきて、相手の心臓部を一気に攻撃するという兵法を編み出した。これはマケドニア戦法と言われる。
このマケドニア戦法を先鋭化させたのが、フィリッポス二世の息子アレクサンドロス大王だ。アレクサンドロス大王は、騎馬隊の先頭に立ち、自ら相手に攻め入った。この戦の天才は破竹の勢いで、インドまで遠征した。
ここで敗者の歴史は繰り返す。遠征して兵が疲弊した。アレクサンドロス大王はインドから自国に戻る際、病死する。アケメネス朝ペルシアのギリシア遠征が失敗したのと同じだ。この遠くの場所にまで介入して、疲弊するのは、現代のアメリカに似ている。歴史は繰り返す。人類はこの問題を繰り返している。
もう一つ人類が繰り返しているのが、天才の後継者問題だ。アレクサンドロス大王は、後継ぎには最も強いやつを後継者にしろと残して死んだ。後継者の育成は全く行ってこなかった戦の天才の最期の言葉だ。
マケドニアは遠征と後継者問題で弱体化していくが、文化的な遺産は遺した。自国民がアラブに住むようになり、ヨーロッパの文化とアラブの文化が混ざりあい、独自の文化を作った。これをヘレニズム文化という。
この後いよいよ古代ヨーロッパの雄、ローマの登場である。人類の起源が示す通り、人類は集まれば大きな力を発揮する。しかし、大きくなれば分裂もしやすい。大きなものを分裂させずに纏めていくには、強力な一人のリーダーが必要だ。ローマも最初から強大な帝国になった訳ではない。
ローマは当初共和制をしていた。その議会は元老院と呼ばれていた。アフリカ大陸側のライバル国カルタゴとの争いに勝利し、ローマ帝国は大きくなった。ライバルとの闘いを制すると、国がぐっと大きくなるのは、今も同じだ。天下分け目の戦を制する事の重要性を物語っている。逆にいうと、沢山の課題があるなかで、どの課題が天下分け目の大戦なのかを見極める、そしてそこに集中する事が重要だ。
国が大きくなる所で、ローマは寡頭政治を導入した。元老院で議論を重ねるのではなく、少数のトップできめてしまおうという事だ。具体的に三頭政治が敷かれ、その一人がカエサルである。カエサルが三頭政治の頃は、まだ大きな影響力はなかった。そこでカエサルは戦果の報告を詳細に何回にも分けて本部に送っていた。そして戦争に勝利すると、途中経過のレポートを纏めて、ひとつの書籍にした。それがガリア戦記である。ブログを日々執筆し、それがある程度まとまってくると、一冊の書籍にするやり方と同じだ。カエサルは巧みなメディア戦略で、人気を得ていった。
カエサルは旧体制と対立していく。旧体制は元老院である。カエサル陣営は、エジプトの絶世の美女クレオパトラとも交流を持ち、ますます人気を得ていく。人気のインフルエンサー同士のコラボで若者は大興奮だ。「賽は投げられた」という名言の残し、ルビコン川を渡り、元老院を攻め込んだ。
カエサルは元老院に勝利した。しかし、ローマ帝国のトップになる直前に裏切りに合い死んでしまう。カエサルという独裁者誕生が恐れら、逆に敵を作った。死の直前に信頼していたブルータスにも裏切られ、「ブルータス、お前もか」と言葉を残し死んでいった。天下統一の直前に裏切りでこの野望が潰えた信長に似ている。
強力なリーダーシップで、のし上がるが、どこか危ういリーダーは、最後裏切られる。これも人類の歴史の繰り返しとして理解しておきたい。
カエサルの死後、カエサルの養子であるオクタウィアヌスが初代ローマ皇帝になる。オクタウィアヌスはしたたかだった。カエサルを見て、人々は強いリーダーシップが求めるが、独裁者は恐れるらしいと思い、オクタウィアヌスは、市民には、自分は市民の代表であるといい、元老院とは根回しをしながら協調していった。
このローマ帝国の誕生とともにヨーロッパに大きな影響を持っていくことになるがキリスト教だ。イエスはもともとユダヤ教の信徒だった。しかし、ユダヤ教は厳しい戒律を守っていれば、絶対神が救ってくるという教えだ。しかし、ユダヤ教徒は戒律も厳しいが生活も苦しかった。ローマ帝国の支配を受けていたからだ。
ユダヤ教にも隣人愛の考えが出てきた。隣人を愛せば、神は誰も愛してくれるという考え方は、疲弊したユダヤ教徒に急速に広まっていった。
ユダヤ教とキリスト教の違いは何かを理解する為にまずは多神教と一神教の違いを理解しておきたい。多神教は、色々な神様がいるので、色々な土地でその風土になった神様を作り出す事が出来る。そもそもその土地や風土にあった神様を作るので、嫌われようがない。多神教はその意味で寛容的だ。一方、一神教は強いリーダーシップが人々の思想を纏めようとする。その分、全員に優しい玉虫色のルールを作る事が出来ない。ゆえに戒律が厳しくなりがちだ。
この宗教の仕組みと政治の仕組みは、特徴が同じだ。ワントップなら支配的で人を纏める力が強い。
キリスト教はイエスの死後、広まっていった。イエスが生きている間、イエスはあくまでユダヤ教の異端児とみられていた。ローマ帝国とキリスト教は後に、ワントップ通しの組織として争う事になる。しかしそれはまだ先の時代になってからである。
話をローマに戻す。ローマは五賢帝時代を経て栄えていく。五人連続して賢帝に恵まれたローマは栄えたが、五賢帝の中で一人だけ自分の息子を後継者に選んだ賢帝がいた。それが五人目のマルクス・アウレリウス・アントニウスである。そう、後継者選びをミスった為、五賢帝時代は終焉を迎える。四人目までは後継者は世襲制ではなく、能力で選ばれていた。天才は後継者選びを失敗する。また、アレクサンドロス大王の失敗がここでも繰り返される。
五人目のマルクス・アウレリウス・アントニウスは自国の防御に苦しんだ。ローマ帝国があまりに巨大になり、常に外敵から攻められるという状況になっていた。大きくなりすぎて、隣国も増えたためだ。
また歴史は繰り返す。
覇権を取った国が大きくなりすぎて肥大化すると、コントロールできなくなってくる。自分の身の丈以上にエリアを広げていた結果、疲弊していき時代が変わる。
アレクサンドロス大王のマケドニアしかり、ローマ帝国しかりだ。現代では、中国やロシアが同じ問題を起こしている。アメリカも飛び地で広大な領土を持っており、隣国が多い。これは世界史、そして将来にわたり繰り返される事になる重要な示唆だ。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという教えが、ハンマーとなり、それで頭をぶっ叩かれたような気分だ。そういう意味だったのかと、ようやく腹落ちした。
五賢帝時代以降、ローマは疲弊して財政難に陥った。ローマは増税を行った。ローマ市民は疲れていた。こんな時、隣人愛を説くキリストが広まった。ローマは皇帝より神を信じる市民が増えてきた事により、影響力の低下を恐れ、キリスト教を弾圧し始めた。
しかし、ローマ帝国もキリスト教を弾圧しきれなくなる。なぜならキリスト教徒があまりに多くなったからだ。ローマ帝国はついにキリスト教を認めた。いわゆるミラノ勅令だ。以降、ローマ帝国はキリスト教というワントップ宗教と結託して政権維持を図っていく。
これも歴史は繰り返す。宗教母体と結託して政権維持する手法は、自民党と旧統一教会の関係と同じだ。信徒が多いとそれだけ得票が見込める。
キリスト教はワントップ体制であり、そのトップはローマ教皇だ。ローマ教皇の力があまりに強大になり、ついにローマ教皇がローマ皇帝を破門にした。これは困るという事で、ローマ皇帝はついにキリスト教を国教に認めた。
キリスト教を国教化したローマ皇帝は、後継者選びを行う際、息子二人にそれぞれの領土を与えた。西ローマ帝国と東ローマ帝国の誕生だ。このローマ帝国分割はローマ帝国弱体化の始まりだ。
東ローマ帝国はビザンツ帝国となり、西ローマ帝国はゲルマン民族からの侵入を受けた。このゲルマン民族大移動の影響を受けなかったのがビザンツ帝国だ。ビザンツ帝国は1000年続いた一方、ゲルマン民族に攻められた西ローマ帝国はすぐに滅亡した。
西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン民族はフランク王国を作った。現在、フランスとドイツのあたり収めていた。この王がカール大帝だ。フランスもドイツも両国ともこのカール大帝を国の始祖としている。
このフランク王国にローマ教皇は慌てた。西ローマ帝国が滅び、軍事的後ろ盾が弱体化しつつあるローマ教皇はカール大帝を認めた。その見返りとして武力的後ろ盾を得た。カール大帝もローマ教皇の後ろ盾を得て、影響力を強めた。
フランク王国ものちに分裂する。フランク王国はドイツ・フランス・イタリアに分かれた。ここでローマ教皇はまた誰かを後ろ盾にしなくてはならないと考えた。ローマ教皇はドイツを選んだ。なんと国名に新生ローマ帝国の名を与えた。
また歴史は繰り返す。ローマ教皇と新生ローマ帝国の皇帝は、どちらが偉いのかという問題が起きた。結論から言うとローマ教皇が勝った。時の新生ローマ帝国の皇帝は、カノッサ城で三日間ローマ教皇に謝罪した。カノッサの屈辱だ。これは宗教のトップが政治のトップを超えて、国政のトップにもなった事を示す重要な歴史的史実となった。ここからキリスト教の力が増していく。
キリスト教はユダヤ教の教えを旧約聖書と呼び、自分達の教えては新薬聖書と呼ぶ。ユダヤ教はキリスト教を異教なので、そもそも新約聖書は認めていない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にそれぞれ、モーセ、イエス、ムハンマドがそれぞれの預言者となっている。一番古い宗教であるユダヤ教は新しい宗教を認めない。キリスト教も自分達より新しいイスラム教を認めない。イスラム教は、古い宗教を認め、最新が自分達の協議とする。元ネタはユダヤ教なので、聖地エルサレムも同じになってしまう。
ローマ教皇がついに軍事的動きを始める。セルジューク朝がエルサレムを支配したので、これを取り返すという名目でローマ教皇は十字軍としてエルサレムに向かった。ローマ教皇の号令のもと、各国が十字軍という連合軍としてエルサレムを奪還した。しかし、十字軍が戻ったら、またエルサレムが奪われた。二回目の遠征は失敗した。遠征で十字軍はへとへとになっていた。
これも歴史の教訓が再登場する。遠征すると、兵は疲弊して負ける。
セルジューク朝にはサラディーンという英雄がいた。キリスト教捕虜に対してお金を渡して、解放していたという。これには十字軍側も感銘を受けた。
この十字軍の遠征は、1勝3敗1分け2ノーカウントだ。キリスト教版の遠征の失敗だ。ローマ教皇の権威も失墜した。
ローマ教皇の破門も効かなくなってきた。ローマ教皇はフランスの端麗王フィリップ4世に破門を言い渡した。しかし、フィリップ4世に逆に捕まえられ投獄される。ローマ教皇は怒り狂い憤死した。これがアナーニ事件である。ローマ教皇の権威失墜し、フランスの勢力が強くなってきていた。
この頃、神聖ローマ帝国はローマが無い事をコンプレックスに想っていた。神聖ローマ帝国はイタリア政策と称して、イタリアに何度も攻め込んだ。両国は戦争を繰り返し、疲弊した。
これも歴史の繰り返しだ。戦争をすると、疲弊する。
両国の疲弊の結果、フランスとイギリスの力が増してきた。
イギリスはもともと、フランスの王様の部下がイギリス王の始祖となる。これがウィリアム征服王だ。イギリスは中世、暗君が続き、国が弱体化した。ジョン王は暗君として知られる。あまりの暗君ぶりで後の王はだれもジョンを名乗らなくなったので、ジョン2世や3世はいない。
暗君は新たな議会のあり方を作るきっかけとなった。暗君ジョン王に対して、貴族によりマグナ・カルタが提出された。これは憲法の概念の誕生だ。これにより、国王がおかしな法律を作れない様に規定した。また、王を信用しない為、議会政治も誕生した。
一方、スペインはイスラム教を追い出す事に成功して、海への道が開かれた。後の大航海時代の絶頂への足掛かりとなっていく。
さて、中世ヨーロッパの覇権争いがおきる。イギリスとフランスはいよいよ大きな戦争を始める。百年戦争である。これはフランスが勝利した。ジャンヌ・ダルクが活躍したのがこの百年戦争だ。しかし、ジャンヌ・ダルクはイギリスにつかまり、魔女裁判にかけられ処刑される。今でもフランスの英雄だ。
ヨーロッパには二面性がある。ここまで見てきた通り、キリスト教という精神的な統一性がある。一方で、色々な国が勃興して、色々な文化が混ざっている多様性もある。
この後、ヨーロッパは大航海時代に突入する。
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