【世界史④/8】古代・中世 中国の歴史 総集編【2023年最新版】の復習

地政学

中国には黄河文明と長江文明がある。人は過ごしやすい地域に集まる。そこには必ず川があり、農業に利用される。中国では、甲骨文字を使っていた。亀の甲羅や骨に文字を刻んでいた。 

中国の村は邑(ゆう)と呼ばれ、大きな村は大邑と呼ばれた。それが更に国家に発展した。最初の国家は殷だ。後の周王朝も含め、両国とも女性問題で崩壊した。妲己という美女に溺れ、政治に目がいかなくなり反乱が勃発した。これは封神演義に描かれている。周も同じ原因で崩壊した。傾国の美女という言葉もここから生まれた。国を傾けるほどの美女という意味だ。 

国が崩壊した後、春秋・戦国時代が始まる。この戦乱を統一したのが秦である。戦国時代自体が歴史として後の人類が学ぶものがなくむしろ失敗の時代なので、世界史的にはこの時代はあまり資料が残っていない。残すモチベーションがないのだ。 

そんな時代でも注目すべき人物は孔子だ。孔子は徳が重要だと説いた。上の人間は徳を持ち、下の人間は礼を持ち、その上下関係を保とうという思想だ。 

孔子以外にも思想家はいた。孔子は儒家、法律重視の韓非は法家と呼ばれる。愛を説いた墨子は墨家と呼ばれ、戦に注目した孫氏は兵家と呼ばれた。 

暴力と権力の時代に思想として権力者に見いだされ利用されていくのは世界共通だ。ヨーロッパのイエス、インドのブッダ、そして中国の孔子だ。 

中国でも鉄が利用された。これは農具に使われ、生産効率が上がった。これもインダス文明のアーリア人と鉄の流入と同じだ。イノベーションがおきると、貧富の差が広がる。鉄の登場により、青銅器は需要がさがり、代わりに硬貨して使われた。貨幣も疲れ、貧富の差がはっきりとわかるようになった。 

戦国時代を統一したのが秦だ。始皇帝は法家を大事にしていた。天下統一した時代には儒教は不要として、焚書坑儒を行った。 

始皇帝は万里の長城を築いた。これは各地にあった城壁を繋げたのが万里の長城である。しかしこれは財政を圧迫した。無理な大規模工事を行うと、その後、国が傾くのも世界共有のよくある事例だ。しかもこの工事に遅れたものは死刑になった。 

始皇帝の厳しすぎるルールは人々の恨みを買った。どうせ無条件に殺されるなら、反乱しようと民衆は思うようになった。 

ここから人類が学んだ事は残虐すぎる刑はやめるという事である。恨みを買って、後に必ず復習されるからだ。始皇帝は法律を重視したが、そのデザインは間違っていた。極端な重刑が多く、バランスが良くなかったのだ。 

この秦の弱体化の時代に登場するのが、項羽と劉邦である。項羽は名門出身、頭も良い、そして怪力だ。一方の劉邦は、農民出身で力も弱い。しかし性格は良い。人柄の劉邦と実力の項羽といった感じだ。 

項羽は自分が実力があると思っているので、部下には厳しかった。まるで信長の様だ。このタイプのリーダーは、最終的に部下に裏切られる。項羽は、部下に裏切られて死んだ。最期は、あの有名な四面楚歌である。 

劉邦は残虐な始皇帝と残酷な項羽を半面教師にしようとした。始皇帝は、封建制で地方に自治を行われていたのをやめて、中央集権で地方を管理した。劉邦は地方に権限を与えて管理させようとした。 

しかし、劉邦も不安に駆られる。権限移譲で地方が力をつけるのではないかを疑うようになり、自分の息子を派遣するようなった。 

信用すれば裏切られ、粛清すれば恨みを買う。この劉邦からも、いかにして部下にどこまで任せるかという事は、非常に難しい問題であると教えてくれる。 

劉邦に話を戻す。劉邦が作った国はいわゆる前漢だ。劉邦亡きあと現れたのが、武帝だ。武帝は始皇帝にはなかった儒教の公認を行った。盤石の帝国×道徳・思想の組み合わせである。これはヨーロッパのコンスタンティヌス1世がキリスト教を認め、インドのアショーカ王が人民掌握の為に仏教を公認した事と全く同じだ。宗教と民衆掌握に利用されるのである。 

因みに皇帝はあだ名で呼ばれる。戦いがうまかった皇帝は武帝と呼ばれる。政治がうまかった皇帝は文帝と呼ばれる。王朝を建てた人は高祖と呼ばれる。二代目・三代目当たりは太宗と呼ばれる。 

この前回の武帝は遠征を行っていた。これは既に学んだ国家の数弱のパターンだ。 

また、武帝は宦官を行った。権力者が色欲に溺れない様に役人は全て宦官とした。この宦官達は、後宮での仕事や皇帝の身の回りを世話係として適任となり、重用された。従って、宦官達は出世欲が強くなった。 

ここでも問題が起きる。皇帝は基本的に世襲制だ。宦官達は、幼帝を建てるようになり、自分達がその後ろで実質的に実権を握ろうと思うようになった。これにより前漢は没落して、新に乗っ取られた。その後、新を打倒し、もう一度、漢を起こす。いわゆる後漢だ。 

この後漢での名君が洪武帝だ。洪武帝は要望にまみれて、争っていると国が亡ぶと見極めた。洪武帝は「戦う」という言葉の使用すら禁じた。また、重税も国民の反感を買う事も理解して、重税もやめた。 

しかし、宦官の問題はそのままだった。これが、前漢同様、後漢も滅亡させた。光武帝とその息子は成人で皇帝であったが、その10代連続で幼帝で擁立された。宦官に良いように操られた。 

ここで学べる事はルールが曖昧だと、どんないい政治も続かないという事である。 

この後漢の後が有名な三国時代である。董卓が幼帝を担ぎ出して、権力を握ろうとしたが、最後は部下の呂布に裏切られて死ぬ。徳がないリーダーの確定パターンだ。三国時代が始まり、圧倒的に力があったのが曹操である。 

曹操は合理主義者だった。始皇帝と似ている。求賢令を出して、能力主義で人材を求めた。 

曹操は自分の立場も他のものと違った。劉備や孫権が皇帝を名乗っているなか、自分は皇帝を名乗らずあくまで董卓から幼帝を奪い返し、その幼帝の守護者であり、後漢を守っているのだという立場を取った。あくまで皇帝である幼帝を立て、自分が正当性があるという事をアピールした。 

結局、三国時代の後、晋という国を建てたのは司馬炎だ。曹操の子孫は優秀ではなかった。曹操の軍師・司馬懿の子孫は優秀だった。その一人司馬炎が魏を乗っ取り、呉や蜀を滅ぼした。 

司馬炎の過去の権力者と同様、女性問題で没落する。司馬炎の頃、後宮は10,000人の女性で溢れかえり、司馬炎は後世は後宮をうろうろして終わったという。司馬炎を引く羊が止まった場所で遊び、それを繰り返していた。女性たちは羊が自分達の所で止まるように塩をおくようになった。これが盛り塩の始まりである。 

ここから学べる事は、どれだけ天才でも天下を取ったら、豹変する可能性があるという事である。 

この女性問題で没落すると、次に乱世が始まるのもお約束のパターンである。南北朝時代の始まりである。北朝から異民族の流入を許して、漢族は南を追いやられた。しかし、南朝は農業に適しており、南朝は意外と暮らしやすかった。 

この後、南北朝を統一したのが、隋である。ここで文帝が登場する。文帝は科挙を導入した。人材登用ではテストを行う仕組みだ。また、均田制も導入した。均田制は戸籍と貸し出した土地を結び付けて管理した。戸籍が明確になった事で、徴税と徴兵が行えるようなった。文帝はいい仕組みを作ったが、徳はなかったので、人気はなかった。 

その後、煬帝が現れた。煬帝は黄河と長江を縦に繋いだ。大運河工事を行った。万里の長城以来の大工事だ。ただ、人出が足りなく、女性や子供も動員した。しかも煬帝は高句麗まで遠征して負けた。国が亡びるお約束のパターンである。 

隋はあっという間に滅びて唐がおきた。ここで太宗・李世民が現れた。李世民は部下の話をよく聞いた。この時代は貞観の治と呼ばれた。李世民が聞いた話を纏めたのが、貞観政要だ。 

この時代、三省六部が出きた。中書省は皇帝の指示を文書化する。それを門下省が審議する。門下省は皇帝の案でも却下する権限もあった。現代における内閣に対する議会の関係と同じだ。尚書省があり、この配下に6つの省庁があった。今の日本の政治システムとほぼ同じ形だ。李世民は政治体制にチェック機能を実装したのである。これを学びに行ったのが、日本の遣唐使である。 

李世民亡きあと、4代目の皇帝・中宗の時代に事件がおきる。中宗の母親がなんと息子から王位を奪って、中華史上初めての女帝となる。これが則天武后である。息子は王位を奪い返すが、なんと妻に毒殺される。大混乱の時代である。この時代は武韋(ぶい)の禍と言われる。 

この後の皇帝が玄宗である。この時代は開元の治と言われ、良く統治された。しかし宗玄も女性に溺れる。宗玄をおかしくしたのが、楊貴妃である。玄宗は政治に全く興味を示さなくなった。 

均田制も崩れてきた。中央管理がむずかくなって、地方自治は地方に任せた。地方が力を持ち、自分達の土地を主張し始めた。これは荘園と呼ばれる。これにより均田制が機能しなくなる。玄宗が楊貴妃に夢中になっている間、地方の有力者が力をつけた。それでも唐がすぐに滅亡しなかったのは、三省六部のシステムがあったからである。 

大国が崩壊した後、訪れるのは戦国時代と決まっている。五代十石の時代だ。この戦乱を纏めたのが宋である。 

その宋時代の皇帝に趙匡胤(ちょう・きょういん)である。戦が嫌いで文帝系のキャラクターだ。趙匡胤は、試験だけでなく、面接も導入した。また、攻め込んできた異民族に対してはお金を渡して帰った貰った。その結果、財政難に陥った。 

ここで登場するのが元である。千戸制を持って、ユーラシア大陸を席巻した。遊牧民なので、千人の騎馬隊を作り、それがそのまま戸籍であり、遊牧しながら、他国を侵略していく。これが千戸制だ。チンギス・ハーンの息子達が各地を統治した。 

元も財政難で滅びる。チベット仏教にはまり、各地で沢山の寺院を立てだした。これにより財政難になった。遠征して財政難になったら、国は亡びる。 

その後、中国は明がおきる。明の皇帝・朱元璋が洪武帝を名乗り、明をおこした。朱元璋は農民出身の皇帝だ。朱元璋は唐崩壊の理由を参考に三省六部を強化した。六部を皇帝直轄にて、自ら議案決済して、地方の中央管理を強化した。また、戸籍を再度作り上げた。そして道徳も大事だと気づいた。儒学の教えを六諭として簡略化して、これを農民に毎日唱和させた。そして秘密警察を使い反乱の意思を少しも見せたら、その人物は即粛清した。究極的に管理体制を強化した独裁者となったのである。その為、明は暗黒時代とよばれている。朱元璋の肖像画は二種類あり、自ら描かせたものは立派な肖像画だが、ひそかに民衆が描いた肖像画は醜悪なものになったおり、こちらが本当の姿を現していると言われてる。しかし、この明の時代に作られた管理体制は強固に残る事になる。 

明の後、清がおきる。満州からきた女真族の国である。その清の時代には六人連続で名君が出た。中でも4代目の康熙帝は中国史上最高の名君と言われている。康熙帝は減税政策を行った。質素倹約を奨励した。学問も推進した。自分も勉強して、康煕字典を出版した。のちの漢字辞典の元である。また、民族の差別もやめて、人材登用を行った。これにより民族間の争いも無くした。 

6名君目である乾隆帝は、最大領域を広げた。遠征には強かったが、遠征しすぎて国が疲弊した。 

この頃、大英帝国が船で中国にやってきた。陸で領土を拡大する時代は終わり、大航海時代の幕開けだ。 




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